笑いあり、涙あり、人の心に刻まれた風景と記憶。私と渋谷物語

2022.11.30

〝渋谷〞と一口に言っても、時代や地域よって思い描く風景はさまざま。遊び場、仕事場、生活の場、と目的が変われば、目に映るものも百人百様。人生のハイライトをこの地で過ごした渋谷っ子が綴る、「私と渋谷」の記憶。

地球半周分を渋谷で走破!

大学2年生で千駄ヶ谷に越してきてから、50年近い年月を過ごしています。都心でありながらも明治神宮や代々木公園といった森だらけなのがいい。千駄ヶ谷富士で名高い鳩森八幡神社は勝負運アップも期待できるらしく、選手人生を送るのにもちょうどよかった。
早大生の自分が渋谷区に住むようになったのは恩師・中村清監督の自宅があったから。そのため代々木公園でよく練習をしていましたね。舗装路よりも大きくとれる外周があって、しかも土道と舗装路の混合コース。東京には土道がなかなかないので、とても貴重なんですよ。足首の強化や体幹バランスの整えにも役立つ。およそ2.5km のコースを朝(4周)晩(10周)ランニングしたなぁ。いまは散歩を楽しんでいます。織田フィールド(代々木公園陸上競技 場)ではこれまで地球半周以上(2万km超) は走っているかな。
陸上競技指導者/瀬古利彦さん

まだ誰もハロウィンを知らないときの話。

私にとって渋谷区は生まれ育った地。幼い頃は玄関に鍵をかけたこともないくらい呑気なところでした。かつて、円山町にはお座敷や旅館があって、芸者さんやおかみさんに挨拶したものです。ハロウィンになれば大使館に勤める海外の方のお宅へ伺って、トリックオアトリート!と言ってお菓子をもらう子どもたちがいました。まだ日本人は誰もハロウィンなんて知らなかった時代のお話。私にとっての渋谷はずっと住みよい街。でも、何か要望を言うとしたら、子どもとそこに住む人が主役のハロウィンができたらいいのにな、と思います。
「魚ゆう」店主/野村諭さん

自分を形作る街。

自然、文化、経済、そしてスポーツ。
多様な魅力を持つ美しい街・渋谷。
そんな場所で生まれ育ったことが僕の誇りです。
モーグル・競輪選手/原 大智さん

故郷に錦を飾る、その日まで。

私は渋谷区笹塚の生まれで、父が講談師の八代目一龍斎貞山、祖父が七代目という講談一家に育ちました。世襲制でない講談の世界ですので、笹塚幼稚園、笹塚小学校、笹塚中学校に通っている時は、自分が講談師になるとは夢にも思っておりませんでした。そんな私が講談界に入門して、はや14年の歳月が。お陰さまをもちまして、令和5年4月に真打昇進をさせていただく予定です。
渋谷は日本のまん真ん中に位置し、最先端の技術やファッション、飲食店が立ち並んでいますが、小径に入ればどこか懐かしさや義理人情があふれるとても魅力的な街。小学生の頃、笹塚の観音通り商店 街の焼き鳥屋のお婆ちゃんがオマケしてくれる串を口一杯に頬張ったり、 十号通り商店街や十号坂のラーメン屋さんやとんかつ屋さんに、講談師である父とよく行き、帰りにおもちゃ屋さんでジオラマを眺め、プラモデルや駄菓子を買ってもらうのがとても楽しみでした。そして兄とよく遊んだ玉川上水。後に、この玉川上水は、江戸時代に羽村から玉川兄弟が苦 心して引いてきた水路ということを講談を聴いて知りました。その玉川上水の由来噺や、かつて千駄ヶ谷の地に存在した徳川家が舞台のお屋敷のお話、渋谷駅前にて大好きな主人を待ち続けたハチ公物語など、渋谷区にまつわる講談もたくさんございます。
私は渋谷区で生まれ育ったことを誇りに思います。今後もさらに精進を重ね、いつの日か故郷に錦を飾れる日が参りますよう、全力で精進を重ねて参ります。
講談師/一龍斎貞鏡さん

出会いとチャンスをくれた街。

’90年代後期、再婚を繰り返す親と の不仲と家庭や学校での疎外感に悩み、自分の居場所を見失って泣いてばかりいた私。唯一の心の支えだったダンスミュージックや、渋谷系の音楽を追いかけて、思い切って家出してたどり着いたのが渋谷の道玄坂。ポケットにはわずかなお金と勘と勇気しかなくて、行き場のない寂しさが生きる原動力だった。とにかく一日一日を必死に、自分の未来を良い方向へと導いてくれそうな人と出会うことと、その人の期待に応えることを繰り返した日々。人の数だけ出会いがあり、良いも悪いも、それを引き寄せるのも選ぶのも自分次第。だけど、人は出会いでしか変われないし、新しい運命は切り開かれない。絶対に自分らしく生きたくて、自分らしさとは何なのかだけはわかっていた。スクランブル交差点のイメージのままに、渋谷にはたくさんの出会いがあふれていて、一人また一人と大切な仲間ができて、今では一緒に仕事をしたり、遊んだり、時に助け合ったり、泣いたり、笑ったり。今は大切な家族もできて、ひとりぼっちじゃなくなった。つらいこともたくさんあったけれど、めげないで生きていて良かった。出会いとチャンスを授けてくれた渋谷という街に感謝している。時代が変わっても、良き出会いを選択できるような街であってほしい。
DJ&プロデューサー、作家/カワムラユキさん

台風の目の中で過ごした20代。

もう、20年くらいの付き合いになります。 販売スタッフからスタートしたキャリアの99%は渋谷で積んだものです。1990年代半ば、「渋谷109」の「エゴイスト」で店頭に立つことになり、いろんなタイミングが重なって「カリスマ店員」と呼んでいただく時期を過ごしました。たった14坪のスペースで服が飛ぶように売れていく。瞬く間に、ギャルカルチャーの聖地となった「渋谷109」での日々はめまぐるしかったですね。実のところ、何が起こっているのかはあまりわからなかったけど。ギャルの格好はガングロ、極彩色の服、厚底サンダル&ブーツと派手です。正直、あまりいい顔をされる機会は少なかった。でも、渋谷区はその異質さを認めてくれて、カルチャーを確立させてくれた。度量の大きい街だなぁ、といまでもしみじみ思います。
YOCO MORIMOTO DESIGN OFFICE代表取締役/森本容子さん

渋谷も「田舎」だ。

10代の頃は、この渋谷という街が嫌いで仕方なかった。JR、地下鉄、そして東急東横線などが入り組んだ迷路のような駅。行き交う人々の、肩と肩とが触れ合うようなスクランブル交差点。山梨から出てきた田舎の少年には、何もかもが息苦しかったのだと思う。
あれから四半世紀。気がつけば、人生の半分以上を渋谷で暮らしてきたことになる。ここで学生時代を過ごした僕は、いつの間にか教師になって、渋谷から毎年の卒業生を送り出す立場に変わっていた。その間に気付いたのは、渋谷も「田舎」だということだ。道玄坂の老舗居酒屋に通い、明治通り沿いのバーバーで髪を整え、仕事終わりに銭湯のサウナで汗を流す。そんな暮らしをしているうちに、僕もすっかり渋谷の人間になっていた。
人が変われば、街も変わる。再開発にともなって駅周辺のビルが姿を消した時は、渋谷の空も信じられないほど広くなった。そして、コンクリートとアスファルトの下からは、滅多に見られない関東ローム層の赤茶けた大地が顔を出した。ここは、 古く旧石器時代から今日に至るまで、「渋谷」に集まってきた人々の生活の舞台だ。ちなみに、ぼくは最近、NHKの構内に全長100m 近い大型の前方後円墳が存在した事実を突き止めた。まだ論文にはしていないけれど、渋谷にはまだ誰も知らない謎が埋まっている。
遠い昔に何があったのか? これからの未来に何があるのか?
渋谷のちからは、まだ「底」が知
れない。
國學院大學准教授/深澤太郎さん

雑多感のある 渋谷でいてほしい。

もう随分と長い時間を渋谷で過ごしてきた。小学生の頃に遊びにいくようになり、10代のほとんどをこの区内で過ごした。当時一緒に時を過ごした友達が大人になり、社会に出ていくにつれて、他の街に移動していくなかで、僕はずっと渋谷に止まってきた。銀座で飲むことも、新橋をフラつくようになることも、自分の人生には起こらなかった。「まだ渋谷にいん の?」。若者の街というイメージがどうも強い渋谷でまだ飲んでるというと、みな一様に同じ反応をする。お前はもう地縛霊かなんかじゃないの?とでもいうように。なんといわれようと僕は渋谷が好きだ。外から見るだけではどんな店が入っているかわからない雑居ビルや、ビルの谷底にある商店街の名残。おじさん1人でやってるレコードバーや、安い焼き鳥屋、居 酒屋に隠れた名店。そこには老若男女、国籍を問わず、あらゆる人たちを 受け入れてくれる場所がある。お高くとまっているわけでも、閉鎖的なわけでもない。中学生がゲームセンターで遊び、大学生が飲み会で盛り上がり、お母さんたちがデパートで買い物する頃、お父さんたちは酒を飲み、そのかたわらをスケートボードを抱えたキッズたちが横切る。夜になればあらゆる音楽が鳴り響き、夜明けまで誰かが踊っている。こんな素敵な街、 他にどこにあるというんだろう。だから僕はずっとこの街にいると思う。そしてこの街がただ再開発で味気ない街にならないことを心から願う。雑多さこそ、渋谷の魅力なのだから。
tripster 主宰/野村訓市さん

夏の風物詩。

渋谷区民になって、もう53年が経ちます。幡ヶ谷に越したのは、ちょうど納涼祭の時期。商店街から流れる、三味線と笛の音色。奏者と歌い手を乗せた小さな車が100人以上の踊り手を先導していて、それはもう見事でした。私も幼い頃から踊りを習ってきましたので、いつか列に加わりたいと思ったことを鮮明に覚えています。今も区内では数々の祭事が行われます。「夢見る渋谷」の盆踊りバージョンや、「パプリカ」を親 子で踊る姿。踊りが暮らしに根づいた下町情緒あふれる渋谷文化を これからも残していきたいです。
幡ヶ谷本町西町会 前会長/村山優美子さん

原点に戻してくれるバスケットコート。

学生時代によく代々木公園バスケットコートへ通っていました。 そこで居合わせた方たちと一期一会のプレーをするのが楽しくて。 純粋にバスケを楽しむ姿勢に触れるうちに、戦術とテクニックでいっぱいの頭の中がシンプルになっていくんですよね。だから、行き詰まると今でも足が向きます。バスケで抱えたモヤモヤをバスケで解消する。やっぱり僕はバスケが好きなんだなぁ。
プロバスケットボール選手/ベンドラメ礼生さん

先輩の背中を追って入った消防団。

渋谷区制施行90周年、心よりお祝い申し上げます。祖父が恵比寿へ居を構えたことがきっかけでこの地での暮らしが始まりました。そんな私が消防団へ入団したのは26歳のことです。防火服をまとった町会の役員の方が近所で発生した火災の消火活動に尽力する姿を目の当たりにしたんです。その姿がかっこよく、私も消防という観点から地元に貢献をしたいと考えました。そして41年目を迎えた2022年4月1日に渋谷消防団長を拝命いたしました。入団当初は想像していなかった未来です。 私が幼い頃の恵比寿は駒沢通りに都電が走るのどかな街で、冬の晴れた日には富士山が見えることも。半世紀以上の月日が流れ、今も渋谷は進化をしています。特に渋谷駅周辺の活気は将来性の高さを感じます。成長し続ける渋谷区民の安心安全を渋谷消防署と共に守り続けたい。そんな想いで今日も微力ながら消防団長として活動をしております。
渋谷消防団長/二渡永八郎さん

“氷川さん”のパワーに魅せられて。

江東区深川で生まれ育ち笹塚へ越してきたのは27歳の頃でした。 燃料店として昭和初期より営んで いた妻の家業「奥州屋」を継いだ んです。時代を追うごとに扱う燃 料は炭から石油へと変化をしてい きましたね。ただ、品は変わって も笹塚大通り商店街のみなさんの 支えは変わらない。おかげさまで 半世紀以上商いを続けることがで きました。笹塚は人情が深い街です。お祝い事はみんなで喜び、悲しいできごとが起きた時はともに 心を痛めて寄り添います。
いつも穏やかな空気の流れる笹 塚が、毎年9月24日の幡ヶ谷氷川 神社の例大祭では活気にあふれま す。10ある町会ごとに神輿と山車 が出され、町内を巡行。地域の住 民が一丸となって“氷川さん”へ と向かう姿にいつも元気をもらっています。
渋谷区町会連合会会長/小林三雄さん

衣食住+αで満喫できる稀有な街。

渋谷区で暮らして二十数年目となりました。いろんなものがあって住みやすいです。渋谷区にないものはないのかもしれません。
個人的にこの街はプールや競技場も豊富なため、趣味のトライアスロンの練習場としてもうってつけです。区内で泳げて走れるのはとても助かります。また、私は人の息子の母でもあります。この地で育てた長男は今年で18歳を迎えました。夢中で駆け抜けた子育てもそろそろ卒業に差し掛かっています。振り返ると、子どもたちの通った保育園や小学校も素晴らしかった。次男が小学生の頃には、「渋谷区モデル」として全国に先駆けて、児童1人に1台のタブレットが貸与されたんです。日々の学習の中で浮かんだ疑問をすぐに調べられる喜びに目覚めていましたね。ICT教育を推進する一方で、子どもたちがのびのびと遊べる公園も充実しているのも、いい。つい、渋谷駅周辺にある最先端の商業施設に目がいきがちですけれど、子育て世代にとっても暮らしやすい街なんですよ。毎年夏には区主催の盆踊りに参加していました。大人の私も子どもたちと一緒に楽しい夜を過ごせたのも、いい思い出です。
モデル/道端カレンさん